金曜日
📖 マタイ26:47–27:61;マルコ14:43–15:47;ルカ22:47–23:56;ヨハネ18:1–19:42;使徒1:18–19
ゲッセマネの園で、イエスは捕らえられました。親しい弟子たちは逃げ去りました。イエスは、判決があらかじめ決められていた裁判に引き出されました。偽りの告発を受け、唾を吐かれ、打たれ、ゴルゴタへと連れて行かれました。人の目には、それは悲劇的な敗北のように見えたかもしれません。しかし、信仰の目には、それは神のご計画の完全な成就でした。聖なる御子は、自ら進んで罪に対する神の怒りを負われました。罪なき方が罰を受けられたのは、裁きに値する私たちへの愛ゆえです。
手と足に釘が打ち込まれても、イエスは抵抗されませんでした。あらゆる方向からの嘲りにも、沈黙を守られました。十字架の上で、「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれました。信仰を失ったからではなく、私たちが本来受けるべき神との断絶を、身をもって味わっておられたのです。そして、すべてが成し遂げられたとき、イエスは「完了した」と宣言されました。それは敗北の叫びではなく、勝利の宣言でした。いけにえは完全にささげられ、代価はすべて支払われました。神殿の幕は真っ二つに裂け、神への道は小羊の血によって開かれたのです。
今日、私たちはただイエスの死を思い起こすのではなく、感謝とともに十字架のもとにひれ伏します。その傷によって、私たちはいやされたのです。ここに私たちの希望の土台があります。罪は打ち破られ、死の力は崩され、神の愛は何ものにも勝る輝きで示されました。十字架は物語の終わりではなく、贖われた人生の始まりなのです。