木曜日
📖 マタイ26:17–46;マルコ14:12–42;ルカ22:7–46;ヨハネ13–17;第一コリント11:23–25
イエスは弟子たちとともに過越の食事を祝われました。食事の最中、パンを取り、「これはわたしのからだです」と言い、杯を取って、「これはわたしの血です」と言われました。イエスは聖餐を、単なる象徴的な儀式ではなく、ご自身が真に臨在される恵みの手段として定められました。パンとぶどう酒を通して、信仰によって信者はキリストと真に結ばれます。私たちは単に思い出すのではなく、生ける主によって養われ、力づけられるのです。
イエスがご自身をささげているその時、弟子たちは誰が一番偉いかについて言い争っていました。彼らの心は、十字架の道から遠く離れていました。しかし、イエスは彼らを見捨てられませんでした。一人ひとりの足を洗われたのです—逃げ出すことになるその足でさえも。誰がご自分を裏切るかをご存じでありながら、その者にパンを渡されました。それは、盲目的な愛ゆえではなく、すべてが御父のご計画どおりに進んでいたからです。裏切りでさえ、初めから定められていた愛を無にすることはできませんでした。人の弱さのただ中で、愛は十字架へと進み続けました。
ゲッセマネの園で、イエスは深い苦しみの中で祈られました。「この杯をわたしから取り除いてください」と叫ばれましたが、「御心のままに」と完全に御父に従われました。静けさに包まれたその場所で、弟子たちが眠る中、イエスは目を覚まして祈っておられました。そしてその闇の中で、勝利が始まったのです—そこにおいて、イエスは従順を選ばれました。今日、私たちもゲッセマネの静けさと招かれています。そこでは、私たちの意志が、神の完全な御心へと、信頼と従順によって造り変えられていくのです。