月曜日
📖 マタイ21:18–19,12–13;マルコ11:12–17;ルカ19:45–46
その朝、イエスは空腹で、葉が茂ったいちじくの木に近づかれました。しかし、近づいてみると実がありませんでした。そこで、イエスはその木を呪われました。それは単なる空腹の反応ではなく、深い象徴的な行為でした。外見は豊かに見えても、内側は空っぽのままの人生。神が求めておられるのは見た目ではなく、「実」です。真の悔い改めを求めておられます。これは、霊的な活動に見えても、心からの忠実さを欠いた生き方に対する厳しい警告です。
その後、イエスは神殿に入られました。祈りの家であるべき場所が、商取引の中心になっていました。イエスは両替人の台をひっくり返し、商人たちを追い出されました。この怒りは感情の爆発ではなく、神の家の聖さを愛するがゆえの行動です。貪欲や偽善、魂よりも利益を重視する宗教的制度によって礼拝が汚されることを、神は見過ごされません。神殿とは、取引の場ではなく、聖なる神と弱い民とが出会う場所なのです。
今日、私たちは心を探られるように招かれています。私たちの人生は、神に喜ばれる「実」を結んでいるでしょうか?それとも、従順の根を持たず、見た目の葉ばかりを整えているでしょうか?私たちの生活も、集まる教会も、今なお祈りと礼拝の場所となっているでしょうか?イエスが私たちの人生をきよめてくださいますように—それは滅ぼす怒りによってではなく、汚れにとどまることを許さず、私たちを再び聖さとまことの礼拝へと導く、あわれみに満ちた愛によってです。