朝礼拝と日曜日学校は午前9時半、昼礼拝(インドネシア語のみ)は午後1時、祈祷会は土曜日午前9時です。地図を見る

東京リフォームド福音教会について

日本は世界の中でもっともクリスチャン人口が低い国のひとつであり、日本のキリスト教信者は1%足らずだと言われています。ほんの一握りの人々がこのことに気づき、また空虚さと人生目的の消失感をゆっくりともたらす世の思想に対抗できる唯一の手段は神様のみことばであると気づきました。

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日曜日

📖 マタイ28:1–15;マルコ16:1–8;ルカ24:1–49;ヨハネ20:1–24

朝早く、女たちは墓へ向かいました。手にしていたのは香料であり、希望ではありませんでした。しかし着いてみると、石はすでに転がされていました。御使いは言いました。「ここにはおられません。よみがえられたのです。」その日、すべてが変わりました。悲しみは喜びに、恐れは勇気に変わりました。イエスの復活は、単なる象徴や霊的高揚ではなく、人類の現実を永遠に変えた歴史的事実です。主は生きておられます—そして主が生きておられるからこそ、私たちの希望は決して打ち砕かれません。

イエスはマリアに現れ、次に恐れて隠れていた弟子たちにご自身を現されました。彼らは鍵をかけた部屋に集まっていました—大きな信仰ではなく、かすかな、消えかけた信仰の火を携えて。まるで消えそうな炭火のように、彼らはただ一緒にいて、何が起きるのかも分からないまま待っていました。そしてまさにその場所に、主は現れました。逃げたことも、疑ったことも責めることなく、手と脇腹を示して、「あなたがたに平安があるように」と言われました。その平安は状況の安定から来たのではなく、贖い主が勝利されたことによって与えられたものです。死はイエスを閉じ込めることができず、罪の力は砕かれ、永遠のいのちへの道が開かれました。それは私たちの力ではなく、主が最後まで贖いの業を成し遂げられたからです。弱さの中での交わりにおいて、神はご自身の民の信仰の炎を再び燃え立たせられました。

今日という日は、単なる記念ではありません。それは、生ける勝利を祝う日です。イエスの復活は私たちの信仰の土台であり、力の源であり、すべての約束が真実であるという保証です。私たちはもはや墓の影に生きているのではなく、復活の光の中を歩んでいます。だからこそ、深い喜びと揺るがぬ信仰をもって生きましょう。キリストはよみがえられた—まことによみがえられたのです。ハレルヤ!

土曜日

📖 マタイ27:62–66

イエスは死なれました。御体はアリマタヤのヨセフの新しい墓に納められました。祭司長たちとパリサイ人たちはピラトのもとに行き、墓を守るように願い出ました。彼らはイエスが復活を語っていたことを思い出してはいましたが、信じてはいませんでした。そこで墓は封印され、兵士たちが配置されました—まるで石と兵によって神の力を封じ込めることができるかのように。しかし彼らは忘れていました。彼らが相手にしていたのはただの教師ではなく、死に打ち勝つ権威をすでに現された方であり、死が永遠に彼をとどめておくことはできないのです。

その土曜日は静寂に包まれた日でした。弟子たちにとって、それは悲しみと不安に満ちた時でした。聞いていた約束は遠く思え、慕っていた主は死んでおられました。しかしまさにその静けさの中で、神のご計画は確かに進んでいました。注目もなく、群衆もなく、音もなく。ただ沈黙の中で、勝利の準備が進められていたのです。人の目には見えなくても、神は決して働きを止められません。

今日、私たちは天が沈黙しているように思える時にも信頼することを学びます。祈りがまだ応えられていないとき、希望が埋もれているように感じるとき、すべてが静まり返っているように思えるとき—神は今も働いておられます。墓は物語の終わりではありません。沈黙は敗北の印ではありません。その静けさの中で、復活の約束はその時を待っているのです。だからこそ、私たちは希望を抱き続け、目を覚まし続け、信頼し続けるように招かれているのです。神はご自身のご計画を決して手放されません。

金曜日

📖 マタイ26:47–27:61;マルコ14:43–15:47;ルカ22:47–23:56;ヨハネ18:1–19:42;使徒1:18–19

ゲッセマネの園で、イエスは捕らえられました。親しい弟子たちは逃げ去りました。イエスは、判決があらかじめ決められていた裁判に引き出されました。偽りの告発を受け、唾を吐かれ、打たれ、ゴルゴタへと連れて行かれました。人の目には、それは悲劇的な敗北のように見えたかもしれません。しかし、信仰の目には、それは神のご計画の完全な成就でした。聖なる御子は、自ら進んで罪に対する神の怒りを負われました。罪なき方が罰を受けられたのは、裁きに値する私たちへの愛ゆえです。

手と足に釘が打ち込まれても、イエスは抵抗されませんでした。あらゆる方向からの嘲りにも、沈黙を守られました。十字架の上で、「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれました。信仰を失ったからではなく、私たちが本来受けるべき神との断絶を、身をもって味わっておられたのです。そして、すべてが成し遂げられたとき、イエスは「完了した」と宣言されました。それは敗北の叫びではなく、勝利の宣言でした。いけにえは完全にささげられ、代価はすべて支払われました。神殿の幕は真っ二つに裂け、神への道は小羊の血によって開かれたのです。

今日、私たちはただイエスの死を思い起こすのではなく、感謝とともに十字架のもとにひれ伏します。その傷によって、私たちはいやされたのです。ここに私たちの希望の土台があります。罪は打ち破られ、死の力は崩され、神の愛は何ものにも勝る輝きで示されました。十字架は物語の終わりではなく、贖われた人生の始まりなのです。

木曜日

📖 マタイ26:17–46;マルコ14:12–42;ルカ22:7–46;ヨハネ13–17;第一コリント11:23–25

イエスは弟子たちとともに過越の食事を祝われました。食事の最中、パンを取り、「これはわたしのからだです」と言い、杯を取って、「これはわたしの血です」と言われました。イエスは聖餐を、単なる象徴的な儀式ではなく、ご自身が真に臨在される恵みの手段として定められました。パンとぶどう酒を通して、信仰によって信者はキリストと真に結ばれます。私たちは単に思い出すのではなく、生ける主によって養われ、力づけられるのです。

イエスがご自身をささげているその時、弟子たちは誰が一番偉いかについて言い争っていました。彼らの心は、十字架の道から遠く離れていました。しかし、イエスは彼らを見捨てられませんでした。一人ひとりの足を洗われたのです—逃げ出すことになるその足でさえも。誰がご自分を裏切るかをご存じでありながら、その者にパンを渡されました。それは、盲目的な愛ゆえではなく、すべてが御父のご計画どおりに進んでいたからです。裏切りでさえ、初めから定められていた愛を無にすることはできませんでした。人の弱さのただ中で、愛は十字架へと進み続けました。

ゲッセマネの園で、イエスは深い苦しみの中で祈られました。「この杯をわたしから取り除いてください」と叫ばれましたが、「御心のままに」と完全に御父に従われました。静けさに包まれたその場所で、弟子たちが眠る中、イエスは目を覚まして祈っておられました。そしてその闇の中で、勝利が始まったのです—そこにおいて、イエスは従順を選ばれました。今日、私たちもゲッセマネの静けさと招かれています。そこでは、私たちの意志が、神の完全な御心へと、信頼と従順によって造り変えられていくのです。

水曜日

📖 マタイ26:14–16;マルコ14:10–11;ルカ22:3–6

この日、記録されている出来事は多くありません。しかし、その沈黙の中で重大な決断が下されました。ユダは祭司長たちのもとへ行き、イエスを引き渡すことで合意します。人々のいない時を狙って、密かに裏切る機会を探していたのです。罪はしばしば静かに動きます。表には出ずとも、破壊はしばしば目に見えない場所、真理に冷めた心の中で準備されるのです。

ユダは奇跡を見て、御言葉を聞き、真理そのものである主と共に歩んできました。しかし、肉体的に近くにいることが、心の近さを意味するとは限りません。彼の心は、キリストの栄光にはるかに及ばない、ささいな欲にとらわれていました。イエスを売ったのは強制によるものではなく、自らの中に育て続けた欲望によるものでした。抑えられない欲が静かに心の中で育つことの危険を、ここに見るのです。

今日、私たちが向き合うべきなのは、目立つ行動ではなく、自分の心の静かな領域です。私たちは今、何を密かに抱えているでしょうか?暗い欲望に居場所を与えていないでしょうか?それとも、みことばの光を迎え入れて、心を新たにしてもらう準備をしているでしょうか?この静かな一日に、主が私たちの心を探り、もう一度つくり変えてくださるよう願いましょう。

火曜日

📖 マタイ21:20–25:46、26:3–5;マルコ11:20–14:2;ルカ20:1–21:36、22:2

この日、イエスは一日中神殿で公に教えられました。神の前における人間の責任、偽善へのさばき、そして目を覚ましているようにという呼びかけについて、たとえを用いて語られました。宗教指導者たちは、巧妙な質問でイエスを陥れようとしましたが、イエスは知恵と権威をもって答えられました。拒まれることを承知のうえで、真理は語られるべきものだと、イエスは恐れずに対峙されたのです。その日も、イエスの声は悔い改めへの招きを続けていました。時が閉じる前に。

イエスはまた、エルサレムの崩壊と世の終わりについての預言も語られました。さばきは遠い未来の出来事ではなく、やがて必ず訪れる現実です。目を覚まし、信じる者だけがその日を逃れるのです。イエスの教えは、ただ将来を知らせるためではなく、信仰のある心を形づくるためでした。弟子たちが、この世が揺れ動く時にも立ち続けられるように、備えておられたのです。その土台は、人間の力ではなく、神のあわれみです。

イエスが昼の間に真理を語っておられる時、暗闇の中では殺害の計画が進められていました。しかしイエスは揺らぐことなく、前へと進まれました。どんなことが起きても、すべては神の御手の中にあります。今日、私たちも知識だけでなく、霊的な目覚めをもって生きるように招かれています。みことばから聞いたことが、私たちの「待つ姿勢」と「忠実さのあり方」を形づくるものとなります。私たちが強いからではなく、主が真実なお方だからです。

月曜日

📖 マタイ21:18–19,12–13;マルコ11:12–17;ルカ19:45–46

その朝、イエスは空腹で、葉が茂ったいちじくの木に近づかれました。しかし、近づいてみると実がありませんでした。そこで、イエスはその木を呪われました。それは単なる空腹の反応ではなく、深い象徴的な行為でした。外見は豊かに見えても、内側は空っぽのままの人生。神が求めておられるのは見た目ではなく、「実」です。真の悔い改めを求めておられます。これは、霊的な活動に見えても、心からの忠実さを欠いた生き方に対する厳しい警告です。

その後、イエスは神殿に入られました。祈りの家であるべき場所が、商取引の中心になっていました。イエスは両替人の台をひっくり返し、商人たちを追い出されました。この怒りは感情の爆発ではなく、神の家の聖さを愛するがゆえの行動です。貪欲や偽善、魂よりも利益を重視する宗教的制度によって礼拝が汚されることを、神は見過ごされません。神殿とは、取引の場ではなく、聖なる神と弱い民とが出会う場所なのです。

今日、私たちは心を探られるように招かれています。私たちの人生は、神に喜ばれる「実」を結んでいるでしょうか?それとも、従順の根を持たず、見た目の葉ばかりを整えているでしょうか?私たちの生活も、集まる教会も、今なお祈りと礼拝の場所となっているでしょうか?イエスが私たちの人生をきよめてくださいますように—それは滅ぼす怒りによってではなく、汚れにとどまることを許さず、私たちを再び聖さとまことの礼拝へと導く、あわれみに満ちた愛によってです。

日曜日(棕櫚の日曜日)

📖 マタイ21:1–11,17;マルコ11:1–11;ルカ19:29–44;ヨハネ12:12–50

イエスは王としてエルサレムに入られました。しかし、人々が期待していたような王ではありません。戦いの馬ではなく、ろばに乗ってこられました。世の栄光を拒み、へりくだりの道を選ばれたのです。群衆は歓声を上げ、衣を道に敷きましたが、彼らは迎えている方が誰であるかを本当に理解していませんでした。彼らはイエスが民族を解放するために来られたと思っていましたが、イエスは民の罪の重荷を取り除くために来られたのです。

イエスは都を見て涙を流されました。人々が神ご自身の訪れを拒んでいることをご存知だったからです。真の礼拝の中心となるべき壮麗な神殿の前に、かたくなな心が立っていました。平和の君がそのただ中におられるのに、それを悟っていませんでした。弟子たちでさえ、その使命の全貌をまだ理解していなかったのです。しかし、すべては神のご計画どおりに進んでいました。イエスは人々に高められるためではなく、十字架の上に上げられるために来られたのです。

今日、私たちはこう思い起こすよう招かれています。真の信仰とは、一時的な感情や群衆の熱気から生まれるものではなく、みことばと恵みによって形づくられた心から生まれるのだと。イエスこそ、心からすべてをゆだねるにふさわしい王です。枝を振るだけでなく、自分の全生涯を差し出しましょう。神と人との間に真の平和をもたらすただ一人の王、それがイエス・キリストです。

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